オウム真理教事件が起きた時、日本の仏教界は、「オウムは仏教ではない」としきりにいっていたが、ツギハギな上に、安直なオカルトまで取り入れているとはいえ、オウムが仏教の影響が色濃い宗教だったのは明らかである。むしろ、「仏教ではない」といって、オウムに救いを求めた多くの者を切り捨て、既得権益にすがろうとする者に、宗教者としての資格があるだろうか?
ところで、日本では宗教は人畜無害なものとして認識されがちだが、それはとんでもない誤解だ。多くの宗教で、教祖は社会に対して怒りまくっており、なんとなれば社会転覆を夢想している。宗教が究極のところでは、社会から阻害された者の受け皿となっている以上、教祖がはぐれものでないというのはむしろおかしい。
かくいう私も、若い頃は不器用で、宗教に救いを求めたことがある。
仏教なら無害だろうと門戸を叩いたある仏教系の宗教では、信者がみんな目がイッちゃってて、身の危険を感じて逃げた。
次は天理教に行った。教義は真面目に覚えなかったが、毎回集まるたびに聞かされる“ありがたいお話”の内容があまりにも能天気なので、あるときから話が終わって雑談する時間になると、論理的、科学的に“教え”に反論するようになっていた。ここで気付いたのは、本物の宗教の信者は普通の人ではない、ということだ。信者の人は、ある程度までは私の話を聞いてくれるが、ここまでくれば論破だ、と言うところまで来ても、なぜか、“教え”の方に思考が後退してしまう。これは本当にシュールな言動で、これを文章にして伝えるのは不可能に近い。このあたりで、もうこれはついていけないな、と思い天理教からも私は去った。
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今の私は、いかなる神も、また、いかなる宗教も信じていないが、世の中には人智の及ばない“力”が働いているというのは信じる。これは、ギャンブルをやる人なんかの方が良く感じているのではないだろうか?“ツキ”というものは確かに存在するのだろう。
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